名古屋土鈴・土人形の作者であった『野田末吉』さん。今回は土人形ではなく、繊細華麗で巧繊の限りを尽くした美しい『名古屋土鈴』をテーマにお話にをしていきます。
野田末吉翁 (1902-1989)
名工の生まれた背景
野田末吉さんは明治35年(西暦1902年)1月に、現在の名古屋市東区葵町で、11人姉弟の3男として生まれました。
野田家は、元々、葵町の徳川の下屋敷で御殿の奥女中のお守り役や門番をやっていた家系でした。そして徳川の時代が終わり、廃藩置県と共に禄(職)を失い、父親(重成)の代から名古屋の土人形を作り始めました。
父親(重成)の仕事はあまり褒められたものではなく粗末なものであったらしいです。しかし、母方の祖父は名古屋七宝の職人であり、その血が末吉さんへと受け継がれ、数々の素晴らしい作品を生み出したのだと考察ですることができます。
そんな末吉さんですが、幼少期を過ごした後、高等小学校(現在の中学校)を卒業するとすぐにこの道に入られたというから驚きです。
そして、何十年というキャリアの間に、数多くの新作土鈴を作り上げ、収集家たちの目を楽しませてくれました。
職人気質とエピソード
普段は地味で、口数も少なく、仕事一筋の職人であったそうです。
作品に用いられる陶土は、戦前は御器所のものを使っていましたが、戦後、住宅地となり使えなくなると、瀬戸の土や近所の山の土をミックスして使用するなどのこだわりもあったそうです。
新作を次々と世に送り出しましたが、実演即売会に出たり、作品に説明書を付けたりとか、他の著名な郷土玩具の作者が普通にやっていたことを、野田末吉さんは、ほとんどそれらのPR活動をしなかったそうです。
また、奥さま(八重子)さんに、「名古屋の町中ですらほとんど歩いたことが無いんじゃないか?」といわせるほどの出不精であり、また、仕事の人形作りで疲れてしまい「夜は布団に入ればすぐ寝てしまうため、ケンカにもならない。とにかく変わり者ですよ」と言わせるほどの 仕事ひとすじの職人気質であったとのエピソードも残っています。
才気あふれる造形の巧みさ、ユーモア、描彩のすばらしさ、そんな 繊細華麗・巧繊の限りを尽くした美しい『名古屋土鈴 』も野田末吉(1902-1989)さん一代で廃絶してしまったことは非常に残念で仕方がありません。
しかし、野田末吉という稀代の名職人が作っていたからこその「名古屋土鈴」だったのかもしれませんね。
名古屋土鈴の作品
最後に少しだけ野田末吉(玩弄庵・其水)さんによる名古屋土鈴を少し紹介して今回のお話を終わりにしたいと思います。

宝船ですね。おっ よく見ると牛さんが乗ってます。牛さんの表情に何だか癒されてしまいます。十二支のシリーズだと思いますので、他に11種類あるるのかなと思います。シリーズをコンプリートして集めたくなってしまいました。

ねずみと大根の図柄の絵馬土鈴です。小さな土鈴ですが、細部にわたり丁寧に仕上げられています。
この「大黒とねずみ」の組み合わせは、ねずみが大国主神を救ったという神話から大黒天と鼠は結びつき、大黒天には白ねずみが付物となりました。
そして、江戸時代の民衆文化のなかで『大黒鼠』 ⇒ 『ダイコン喰うねずみ』と云う掛けことばから生まれ、定番の意匠になっていったようです。
末吉さんの作品は、数は少ないとはいえ、まだまだ入手の機会が有るのもうれしいところ。当然、ヴィンテージを探すことにはなりますが、ネット通販サイトや、民芸ショップ等で、手に入れることも可能です。ヴィンテージの為に価格はバラつきはありますが、根気よく探せば1000円~で手に入ると思います。
ただアイテムを手に入れるだけはなく、「野田末吉」という稀代の作り手がいたことや物語を知りながら、楽しんでいただければ幸いです。